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独創の正体とは?

プリミティブかつ独創的で、その時代を表していること、

そしてそれが、なぜここに書かれなければならなかったのか?という作家の強い動機を感じさせる「何か」がそこにあること。

さらには、今書かれたかのような、みずみずしい作品。

そんなものを私は見てみたい。

私は若い時に何かしらの問題意識とか、例えば井上有一がしたような戦争体験とか、そんな強い動機を、あるいは強い作品を促すような何かを持ち合わせてなどいなかった。

結局自分が何者でもないということが、アーティストなんかになれない全ての原因だと思っていた。ただ平凡な現代の若者。

しかし、そんな自分でもチャンスが残されているんじゃないかと思ったのが、やり始めて少し経った後のことだった。

自分の作品を面白いと思ってくれるコレクターの人に出会ったのだ。それは私がギャラリーに勤めていたことと、無関係なはずはなかった。

ある時その人は寿司屋のカウンターでこう言ったのだ。

「山本さん、アートというのはね、ここにあるこの割り箸を、あそこに並んでる包丁だと言い張って、人に認めさせることですよ」と。

その時には何のことかはわからなかったが、今ではその意味はよくわかる。

それから私は、たくさんのものを観、たくさんのものに触れ、たくさんのものを吸収していった。そんな若者時代を過ごさせてもらった。

しかし、それはまだまだ底の浅いものだったし、それから同じものを何回も見続け、何でも考え、何が足りないのか自分なりに分析して、やがて足りないものは「確信」なんだと「確信した」。

それはすなわち、独自に何かをとらえ、独自に何かに気付き、独自に何かを確信することだった。

つまり、誰も発見したことのない、自分だけの気づき、紛れもない「実感」だったのだ。

どんなありふれたモチーフでも、それは自分だけの実感であるならば、オリジナルなものになる。

セザンヌやピカソが描いたのは何だったのか、考えればそれはすぐにわかることだった。

それはただの山だったし、人の顔だったし、どこにでもありそうな花瓶や果物だった。

それがなぜ独創的に見えるのか?

どこにでもあるありふれたものがなぜ独創的なのか?

それは独創的なものを書こうとしたのではなくて、その人自らが独創的な存在だったからではないか。

つまり人とは違うことを受け入れ、人とは違うところで存在していたからではなかったか。

誰かがそれを見てアウトサイダーだと言うかもしれない。

それは、何かを作ることに苦心し、のたうち回った末の、誰にも似ていない姿なのではないだろうか。

私は思う。それには経験と時間が必要なのだと。

子供が大人に変わるように、若者はアーティストになるのである。

そうしてようやく、自分だけの発見ができるようになるのだ。

そして技術。

その自分が見たいものを具現化する能力が必要なのである。

そのために若者はただひたすらに書くのだ。

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