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コマーシャルギャラリーで作品を発表するということ。

富山のギャラリーNOWで行われる個展のための作品制作が昨日で終わり、今日は気分転換に野球観戦に行った。(我がカープは負けた)

ところで、以前は作品を作るという事は自分の思うままに、という色彩だけだったのが、これからは責任という色合いも加味されてきた。

それは心地の良い緊張感である。期待に応えないといけないという使命感でもある。

おそらくは日本のほとんどの人が知らないだろう「自称ではない職業芸術家」というものはこういうものなのかという、最近はそんな新しい驚きの中で生活をしている。

「自分の作品に客観的な値段がつく」

しかも、それらは全て、ついこないだ、自分の実家の2階で作られたものだ。

こないだまでは、作っても作っても何年間もいや、十数年間も、寝かせておいたものばかりだった。それが今は作った端からマザー・ギャラリーやその他の展覧会場に運び込まれ、売られていくのだ。

美術関係者、コレクターたちの鋭い目にさらされながらである。

今日は一人マツダスタジアムの中にいて、そして、その中でプレーしている選手たちを見て、そんなことを考えた。

自分もこれまで学習塾というフィールドで、しかも、出版活動などして、ある程度注目される立場にあったから、そこでのプレッシャーとか、果たさなければならない責任みたいなものについては、身に覚えはあった。

けれども、それが、コマーシャルギャラリーでの芸術家活動となるとまた話は別で、こうして自分の考えている事、そしてその息遣いまでもが作品という形になって、衆目の中にさらされることは、予測はしていたものの、いざ現実となって目の前に現れると、周囲との連動と相まって、一芸術家としての責任と自由度がこれまでよりはるかに増していることに気づく。

何かを依頼されて、それが束縛だと感じる芸術家はまだアマチュアだ。

現実はそうではない、しっかりとした信頼関係に基づく、これは契約なのである。だからこそ、周りの人たちは僕に、誰もが見たことがないものを作れと、ハッキリとわかる形で期待しているのだ。現在進行形的に、新たな作品が生み出され、一瞬の後に売られていく。それがスリリング極まりない、現代アートの世界なのだ。

しかもそれは自分が今まで作り上げていたイメージを基にして、この作家はこんな感じに成立しているのだと周囲が認識、そしてまた新作に期待するというルーティンの中にあるものだ。

そう、つまり芸術家が果たさなければならない約束は、ただひとつ。

自分の作品だとわかる作品を、これまで通りしっかりと作っていくことだと思う。そしてそれは常に、野心的な新作でなくてはならないのだ。

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