Skip to content →

書の学び方

現代アート書道のレッスンをしていますが、本当に面白い作品というのは、その人の中からしか出てこない。そこを見極めて、「それだ!」という仕事をしています。私もそうやって、育ててもらいました。これ、とても大切なことです。本当に素晴らしいものは、必ずその人の中にしかない。それを知っているのと、知らないのとではえらく状況が変わってくる。これが素晴らしいからこれをしなさい、では素晴らしいものは絶対に出てこない。それでは、ただの押し着せにしかならないわけです。井上有一が言ったように、「自分勝手にやったことに、客観性が生まれる」。最終的にはそうでないといけないと思います。しかし、どれだけのことをやれば、そうなれるのか?それは、自分で底を抜こうとして、そうなれるのでもないとも井上有一は言っています。「底は抜こうとして抜くものではない。底は抜けるものだ」と。そこには、それなりの苦労と努力、さらには時間がかかるものだと私は認識しています。いくら自分で底が抜けた抜けたと思っていても、そうではなかったりするわけですね、実際には。そうした時にこそ、人は謙虚である必要があります。それは、気後れすることでも、人の目を気にすることでもありません。ただ、自分に対して素直になり、猛省し、また立ち上がることしかありません。そうしているうちに、時間があっという間に過ぎ去ります。少年老い易く学成り難しという、アレです。日々、悔しい思いをして、人は大きくなるものなのです。早道はありません。堂々と、書の大道を歩めばいいのです。顔真卿や蘇軾がそうしたように、悠久の歴史から我々は学び、反省し、そして、自分だけの表現を生み出していくしかないのです。先人の威を借る狐ではいけない。残念ながら既存の書道界は、まだまだ前近代的であり、そこから脱却できずにいます。しかし、それこそが真の書道なのだと思っている人もたくさんいる。なぜなんだろうかと思います。なぜわからないのか?芸術の世界は広いのです。そこに目をやらず、模倣に終始し、人間本来の持つ本当にあるべき姿を発見することなく、それで済ませてしまう。さらに、それこそが芸術であると言う。それでは、若者が混乱してしまう。伝統は伝統のままでいいのです。そこにこそ、価値があるのだから。例えば臨書をすることには、無論、大きな意味がある。けれども、芸術とは臨書か?と言えば、それは絶対に違う。そう教えないと、勘違いをしてしまう人間ばかりの世の中になる。さらに芸術とは、もともと才能ある一握りの人間だけのものと捉えられてきた。それをあの時代に、あえて井上有一は「書は万人のもの」と言ったところに意味があった。私はそう捉えています。人は皆、学ぶべきなのです。彼は公教育に身を捧げた、真の意味での教育者でありました。誰もが学べば道は拓けると、彼は考えたのです。以上、私が今日までレッスンを通じて感じたことを書きました。私のレッスンには、書壇関係者から全くの初心者まで、ありとあらゆる方々が参加しています。どうか、偏見を持たず、焦らずゆっくりと、大道を歩んでいただきたいものです。

Published in Statements

Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA