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書の可能性とは

井上有一の言う「書は万人のものである」なら、それはどんな書でも成立することになり、そこに手練れであるか否かはさほどの問題にはならないだろう。

老若男女、誰もが書家になれる可能性があるのだ。

となれば、書における技術信奉の時代は終わり、その作家当人の精神性を表す言葉の内容と、それが発話として瞬時的に表出する、書の根源的な性質をもって成立する「言語芸術としての可能性」を感じるのだ。

書の可能性とは、もはやそのレベルまで達しており、各々の書家の現代アート的な意識の高さ低さが、作品の良し悪しに大きく関係することになるだろう。

すなわち、誰がもっとも新しい書道であると言えるのか?に注目が集まるはずだ。

なぜなら、技術的に優れたものだと判別できるレベルにあるものは、つまりは、既視感があり、その何かと比較する余裕がある。

対して、「なんだこれは?」的な、驚きをもたらすものは、井上有一もそうだが、そこにまず技術があるかどうかの問題は、まず不問となり、隅に追いやられてしまう。

観客は皆、その作品にダイレクトに釘付けになり、次には、その作品の評価の難解さについて、時間を割くことになるのだ。

それは、デュシャンの投げかけた現代アートの根本にある思想と一致する。

網膜に訴えるだけの書道は、もはや終わりを迎え、それ以上のサムシングを感じさせる、言語的な遊び、しかもそれは視覚も伴い、また、それ以上に言葉の意味を重く感じさせることになるだろう。

それは、アーティストという「アートを生み出す人」というニュアンスとは、完全に異なる「書家」すなわち、「人=書」であることに、改めて価値が置かれることになるだろう。

かと言って、書がそこにある物体であることには変わりなく、身体性を伴った芸術であるはずのそれは、大きさをも伴い、デッカク書いたり、小さくて細い作品もまた存在する。

それこそが、精神性を伴った証拠なのだ。言うまでもなく、人はそれぞれが独立した存在だからである。

「書は人なり」

という昔からの格言は、現代アートにおいても、このように生き続けていくのである。

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