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本当に素晴らしいものとは

書道をやっている人がなぜ現代アートに興味が持てないのかを自分なりに考えてみますと、それはお手本や古典など、与えられた課題を次々とこなしてきたのまでは、まあよかったんですけど、そこに創造的なエッセンスを少しだけ加えたら芸術作品ができるんじゃないかと勘違いしてるんじゃないかと思うんですよね。

例えば高校の書道の教科書に載ってる創作って、誰かがこしらえたコンセプトを拝借して近代詩文書とかやってる感じ?そうしたものを僕たちは信じ込まされていた。これこそが創作の書道なんだとやってたわけですよね。

でもそれはあまりにも強引で、よくよく後で考えたら、人の真似なんじゃないかって気づくんですよ。なんであなたが言うように私は文字をデフォルメしなきゃいけないのかとか、最初の段階で気づきそうなものなんですけどね。

19歳の時に井上有一の本を読んで劇的に自分が変わったのは、彼は自分の文字を書くべきだと言ってるわけですよ。人間が書くんだからその人なりのものができるに決まってると。

最初はいろいろ勉強する。でも最後は、誰からも教わらなくても「できるはずだ」ということですよ。それで彼はどうしたかっていったら、例えば教頭時代には学校の教員用黒板に精一杯自分のグッチャグチャの文字を書いて、それで過ごしたんですよね。周りからは読めなくて困るみたいなブーイングがあったけど、それでも彼は止めなかった。

つまり自分の文字を常に書いていないと、それは作品の時だけ空間を作るためにデフォルメしてるんじゃないかと、そうなっちゃうんですよ。

そうするとその作品には本物が宿ってないから、やはりそのうちメッキが剥げて底が浅いものになる。それが普段から自分の文字をそこかしこにぶつけていれば、作品にもそれは自ずと現れるんじゃないかと、きっとそう思ったはずなんですよね。

僕はそれが正解なんじゃないかと思うんですよ。目利きであるコレクターは、そういうところにすごく敏感ですから。

つまりこいつは普段から本物か本物じゃないかってことですよ。そこで彼は受け入れられて、他の書道家は受け入れられなかったって話なんですよ。

ここ最近ずっと、いろんな目利きの方と話をしていると、どうやらそうしたところで判断を下しているようなんです。それが文字を書いた作品でも非文字作品でもです。

ということはですよ?

自分が誰かのお手本をもとに、例えば近代詩文をやっていたとしても、その誰かの書いた文字は自分のものにはずっとなりえないんですよ。それは僕が井上有一や顔真卿には程遠いように、です。それは当たり前のことなんですよ。自分は自分だから。

だから、いろんなものを見て、勉強して、その上で、やはり自分の文字を書く。最終的にそこを貫かないと「本物のあなた」だとは思われないんですよ。

井上有一の話のように、何年も教員生活の中で、やめろと言われても自分の文字を書き続けたほうに、やはり軍配が上がるんですよ。それが本物じゃないですか。

僕は自分の作品については、デフォルメはほとんどしてません。それよりも小学校の時からお手本から外れて書いた時のようなへたくそな文字で書いているんですよ。

それは自然なことですよ。そのお手本とか、古典から外れたところに本当の自分の文字があるわけなんで。

それがね、やがてある種のオートマチスムにつながって、自分の中の思考とか、自然な心の揺れ動きみたいなものまでが表現できるんじゃないかと思っています。

でも、無理矢理空間を構成するための方便として文字を書いていたとしたらどうなりますかね。

きっと自分が作りたいものではなくて、こうしたらうまく見えるんじゃないかとか、かっこよく見えるんじゃないかとか、それって、周囲の期待とか、評価を問題にしてるだけなんじゃないかと思うんですよ。

それはやっぱり、赤マルをもらいたい子供の感覚と同じなんですよ。習字塾の感覚ですよ。だからオトナになった今でも、それと芸術作品とが結びついちゃうんですよね。だから評価されたいと思って作品を作っちゃうんですよ。でも、それはやっぱり違うんですよ。

本物は周囲の評価なんか必要ないんですよ本当は。自分が作りたいものを作ってるだけだから。だってですよ?考えてみてください、これが100年先にも評価されますよなんて保証はどこにもないんですよ。

だから評価はとりあえず気にしないで自分自身の表現を貫いたほうが、精神衛生上いいんですよ。

今はいいですよ?今はプロモーションされていい気になっていても、やがてそれがやっぱり偽物でしたって話になって、人気がなくなっていくかもしれないじゃないですか。もしその人自身が本当に作りたいものを作っていなかったらね。それはもうアーティストとは呼べないわけなんですよ。

その人が、常に本物でなければいけない。しかも一生。

今はちやほやされていても、そこに溺れてしまい、そのうち作品を作らなくなったり、駄作ばかりになってしまったとしたらどうなりますか?

きっとその人は晩節を汚したとかってハナシになって、若い時の作品はいいけどだんだん堕落したとかっていう風になるじゃないですか。実際に美術の世界では、全盛期の作品がよくて、晩年はだんだん良くなくなっていくってのが一般的な見方みたいですけどね。

僕だってだからそういう危険性をはらんでるって話ですよ。

だけど、これを逆に考えたらある段階までは気づかなかったけど、何かをきっかけにすごい作品を作るようになって、死ぬまで現代アートとして通用する書道を貫いたって人がね、やっぱり本当だし、素晴らしいと思う。現に、井上有一の晩年の作品は、本当に本当に素晴らしいじゃないですか。

僕はみなさんにも、この自分にも、そんなことを願っているんです。

本当に素晴らしいものとは

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