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書の歴史の上にいることから、決して逃れることはないだろう

書の世界において、伝統とは既視感の上に成り立っているのに対し、現代アートとしての書は既視感のあるものを排除するというもの。

これは、目的が違うから起こることであり、例えば私が伝統を忌み嫌っているのではない。

古典から学んだことは確固として自分の内側にあるし、かといって、それが直接的に今の作品に反映していることは、先の理由から絶対にない。

また、私が作品を作るときの、タッチが千差万別に変化する書き方は一見、デタラメに見えるが、これも筆の当たり方が自然なだけであって、「私」という一つの装置からすれば、どの動きも合理的極まりないもの。

いけないのは、ためらいがある動き。そうしたものは、邪念が入った時などにそうなってしまう。筆の動きが思うように行かなかったというアクシデントだ。そうした場合には、すぐに捨てることにしている。

現代アートとしての書、と私が呼ぶものは「モチーフが果たして現代を表したものであるか?」それしかないと最近では考えている。書き振りとは一切関係がない。

そしてそれが、意識の上では古典とは完全に切り離されたところになければいけない。

けれども、そうやってでも、私は書の歴史の上にいることから、決して逃れることはないだろう。

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